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真田丸!史実では真田信繁はどんな最期を迎えるのか?


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      2016/05/29

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慶長20年4月末から大坂夏の陣の前哨戦は始まりました。大坂城は濠を埋められたことにより防御機能を失いました。このため、冬の陣では籠城戦を行ったのに対し、打って出るしかありませんでした。

そんな時、家康軍は大阪城を囲んだのです。後藤又兵衛、真田信繁らが打合せをし、道明寺で落ち合って、奇襲をかけることにしました。

しかし、濃霧のため、真田信繁が行路を誤り、到着が遅れたため、後藤らは討ち死しました。

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作戦が失敗に終わった豊臣軍は、大坂城に退却しましたが、この時、真田信繁は、しんがりを務めて追撃してきた伊達軍に反撃しました。伊達政宗はその強さを恐れ、攻撃を中止しました。真田隊は味方を退却させた後に、悠々と引き上げていったと言われています。

そして、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案します。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲するというものでした。

翌朝、信繁は茶臼山に布陣しました。茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には息子の真田大助が控えていたといわれます。

しかし、明石隊が配置につく前に城方の兵が勝手に鉄砲を撃ってしまい、期待していた秀頼の出陣もなく、真田隊は劣勢に陥りました。

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→真田丸!岸井ゆきの演じる真田信繁の妻たかとはどんな人物なのか?

幸村は死を覚悟し、正面の松平忠直隊に突撃しました。真偽は不明ですが、「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」と叫んで家康本陣に駆け入ったと言われています。

真田隊の攻撃は壮烈で、松平隊を崩したばかりではなく、背後の家康本陣(旗本)にまで達しました。家康本隊は混乱して四散し、最後まで家康を守っていたのは本多正重と金地院崇伝だけだったと言います。また、家康は、絶望して、一時切腹を覚悟したと伝わっています。

一説には、信繁は十文字の槍で家康目がけて突撃し、家康はとてもかなわないと思い、植松の方に退きました。重臣・藤堂高虎も防戦に当たりましたが、「御旗本大崩」という有り様でした。

徳川家も「関東勢少し敗北」と、その猛烈さを認め、家康本隊が押し込まれた事実を伝えています。また、家康本隊の旗が崩されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来だったと言われます。

真田隊は、三度まで家康本隊を追い立て、家康は馬印を臥せたり隠したりして逃げ回りました。

しかし、孤軍奮闘の真田隊は徐々にその数を減らし、信繁も負傷と疲れで動けなくなりました。そして、休憩している信繁を松平忠直の鉄砲頭・西尾仁左衛門が討ち取ったと言われます。享年49歳でした。

→大坂夏の陣で真田信繁が赤備えを用いたのはなぜ?赤備えに込められた意味とは?

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