大河ドラマネタバレ考案速報

大河ドラマのネタバレ感想サイト!

*

真田丸!岸井ゆきの演じる真田信繁の妻たかとはどんな人物なのか?


《注目記事》U-NEXTで真田丸が無料で見逃し配信中!

   

スポンサーリンク

真田信繁の妻・たかの父は豊臣秀次、母は秀次の正室一の台御局といわれます。秀次は切腹となり、一の台御局、他の兄弟姉妹も処刑されるのですが、なぜか、たかは処刑を免れました。

秀次の娘で処刑されたのは当時9歳だった露月院のみ。たかは露月院よりも幼かったと思われます。幼い女の子だから見逃されたのでしょう。その後、秀次と母一の台御局の菩提を弔う日々を送っていただろうと思われます。

kishiiyuki

1600年 真田昌幸と真田幸村親子は、高野山で蟄居を命じられます。まず親子が身を寄せたのが蓮華定院(れんげじょういん)で、高野山における真田家の宿坊といった寺だったようです。

冬になり、親子は高野山の麓の九度山村に移りました。九度山村に蓮華定院の領地があって、その土地に住むということで、許可されたといいます。

ご存知のように、高野山は明治後期まで「女人禁制」でしたが、山麓の九度山村に移住したことで、幸村は正室や側室と暮らせるようになったのでした。

一方、たかは、罪人の子として、どこかでひっそりと父親の菩提を弔いながら生きていたと思われます。本来であれば、父親の秀次が亡くなった土地に寺や庵を建てて、そこに居住して供養を行ないたいところですが、高野山は「女人禁制」なので、それは叶いません。

それで高野山の近くで、そういった暮らしができる場所はといえば、女人高野と呼ばれる慈尊院(じそんいん)なる由緒正しい寺が山麓にありました。この慈尊院で秀次の娘が読経生活を送っていたことは、可能性として大いに考えられるでしょう。

当時の九度山村に、真田親子とたかという「零落した貴人」がいたとします。

であれば、おのずと両者が交流を持ったとしても不思議はなく、それが縁になって幸村が屋敷にたかを呼び寄せたのではないかと思われます。いずれも豊臣家と関係が深く、身分の上下関係は分かりませんが、どちらも付近の村人たちとは隔絶した高貴な存在だったのは間違いないでしょう。

スポンサーリンク

→大坂夏の陣で真田信繁が赤備えを用いたのはなぜ?赤備えに込められた意味とは?

1604年になほ(お田)を出産。慶長19年10月(1614年)。信繁が大坂城に入ったとき、たかと大坂城に入ったといいます。

大坂城には秀次の切腹の原因となった秀頼がいました。でも、秀次が切腹した当時、たかはおそらく幼かったので父と母が死んだ事情は分からなかったと考えられます。信繁はじめ九度山にいた者も秀頼のことを悪く言う人はいなかったでしょう。

たかも豊臣の縁者。どうせ死ぬなら大坂城で死にたいと思ったのかもしれません。

慶長19年(12月)1614年。豊臣と徳川は和睦し、真田丸が破壊され、堀が埋められた大坂城にはもはや勝利は望めません。このころになるとたかが信繁の子を宿していることは誰の目にも明らかな状態でした。信繁も脱出を進めたようです。

この時期、多くの者が大坂城を去っていますから、城から出るのはたやすかったでしょう。慶長20年(3月)1615年。たかとなほは京都嵯峨野にある瑞龍院で尼僧をしている秀次の母・とも(日秀尼)のもとに身を寄せました。

その年の7月14日、たかは京で左次郎を出産しています。

なおは紆余曲折の末、出羽亀田藩主岩城宣隆の室となり、お田の方と呼ばれます。左次郎はお田が引き取りました。たかの消息は諸説あります。豊臣・真田の残党狩りから逃れるため、姉の嫁ぎ先である梅小路家を頼ったともいわれます。

たかは寛永10年(1633年)に亡くなりました。一の台御局の実家・菊亭家で葬儀が行われたといいます。

→真田信繁の正室・竹林院に松岡茉優!竹林院とはどのような人物なのか?

 - 登場人物


スポンサーリンク



《注目記事》U-NEXTで真田丸全話見逃し配信!無料で動画を視聴するのはコチラ!

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事