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大野治長が無能と言われるのはどうしてか?関ヶ原の戦いの時や大坂の陣ではどうしていたのか?


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大野治長。大坂の陣で豊臣側が敗北した原因を作った武将とされています。歴史に挟まれる「もし」の一つに、「もし、大坂の陣で、大野治長が真田信繁の主張する戦法を採用していたら?」というものがあります。無能と評価されることが多い大野治長。歴史に名を残すようになったのは、関ヶ原の戦い以前から。どのような人物だったのでしょうか?

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関ヶ原の戦いでは東軍に参戦

大野治長は、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母である大蔵卿局の子です。そのため、秀吉に約3000石で取り立てられました。与えられた地位は、馬廻衆。秀吉の死後は、豊臣秀頼の側近として仕えます。

そのような経歴から、一貫して豊臣側についていた人間と思われがちですが、実は、天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いでは、東軍に参戦しています。そのような行動に出たのは、前年の慶長4年(1599年)の事件が影響していると考えられています。

慶長4年(1599年)、徳川家康暗さつ疑惑事件というのが起こりました。その首謀者とされたのが、大野治長です。治長は、罪を問われ、下総国に流罪とされます。もっとも、徳川家康暗さつ疑惑事件については、家康が重臣・本多正信と謀って仕組んだものであり、治長は陥れられたとする見方が有力です。そうまでして遠ざけたい、いわば、厄介な存在感を持つ人物として家康に評価されていたと見る人もいます。

治長は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に参戦して武功をあげています。その功績によって罪を許され、関ヶ原の戦いの後は、家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡を持って豊臣家への使者を務めています。治長が大阪に居ついたのはその後。家康の書簡を持って豊臣家への使者を務めた治長は、江戸に戻ることなく、そのまま大阪に残っています。

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大坂の陣では淀殿の主張を入れる

慶長19年(1614年)6月には秀頼より5000石を加増されます。ただし、この加増にあたっては、家康の口添えがあったとされます。そのため、礼として駿府にいる大御所・家康を訪れ、次いで、江戸の将軍・徳川秀忠を訪れています。

豊臣家の家老であった片桐且元が追放されるに及んで、治長は豊臣家を主導する立場になります。大坂の陣の直前のことです。豊臣家の内部では、徳川の挑発に対して主戦派が主流となり、各地から浪人を召し抱えます。その招集に応じて大坂城入りを果たした浪人の一人が、真田信繁でした。

浪人たちが主張したのは、機先を制する戦法でした。それに対して、治長たちは、最初は周囲の城を攻め落とす作戦を唱え、後に籠城戦を主張します。籠城戦とは、外からの援軍が期待できる場合の時間稼ぎとして選ばれる戦法です。大阪冬の陣では、豊臣家に味方する者は、すでに大坂城に入城していました。なぜ、籠城戦を主張したのか?

治長が籠城戦を主張したのは、早期から家康との和睦を考えていたからとも、徳川方の密偵として入城していた小幡景憲に謀られたからとも言われています。最もよく言われるのが、大坂城の堅固さに頼り切った淀殿の差出口を入れたからというものです。そのため、治長は、秀頼親子と運命を共にすることになります。

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 - 歴史, 登場人物


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