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毛利輝元と織田信長は仲が良かった時期がある⁈毛利輝元は無能だったのか?


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ドラマでは、織田信長とは対立している姿がもっぱら描かれる毛利輝元。最初から織田信長とは敵対関係にあったのでしょうか?時局によって立場を変えていった戦国武将。敵対関係が生じる前には、実は仲が良かったということも、稀ではありません。織田信長と毛利輝元は、どうだったのでしょうか?また、偉大な祖父・元就と比較され、凡将とか無能と評される輝元。本当に無能だったのでしょうか?

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織田信長とは友好的な関係を結んでいた時期がある

早く他界した父に代わって、輝元を養育したのが、祖父の元就でした。元就の存命中は、毛利家は織田信長と友好関係を築いていました。元就と敵対した大友宗麟が尼子残党と手を結んで、毛利を挟み撃ちした時には、元就は信長に助けを求め、信長は元就の求めに応じて兵を派遣しています。元就が死去した時には、信長は毛利家に香典を送っています。

元就が死去してからは、吉川元春と小早川隆景が、輝元の補佐をしています。両人とも、輝元にとっては叔父に当たります。特に、小早川隆景は、元就の存命中から輝元の教育係として、家臣の目が無いところで、厳しく指導していたとされています。輝元は、秘密事項もすぐに人に話してしまうため、元就が手紙に「輝元は情けない」と綴ったこともあります。吉川元春も小早川隆景も、信長とは、良好な関係を築いていたとされています。

毛利家と信長の関係が変化し始めたのは、足利義昭が毛利家の領内である備後国に動座してきた頃からです。天正4年(1576年)2月、信長に都を追われた義昭は、備後国に動座。毛利家は、鞆に御所を提供して保護します。その一方、毛利家は、義昭の処遇について織田家と折衝を重ねました。この時期までは、輝元と信長は、敵対してはいませんでした。

その後、石山本願寺が挙兵。輝元は、本願寺に味方して兵糧や弾薬を援助しました。本願寺顕如を支援したことで、信長とは対立することになります。

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→織田信長は本能寺の変で命を落としたのか?信長の長所や性格は?

戦国時代が終わった後に内政で手腕を発揮

輝元は、戦国時代には、凡将と言われてきました。羽柴秀吉の中国攻めでは、毛利家に味方する諸将を結果的に十分に支援できていません。信長が本能寺の変で横死した後、信長の家臣の羽柴秀吉と柴田勝家が覇権争いをした際には、両陣営から味方になるよう、誘いを受けていますが、時局を見るために中立を保ちます。

秀吉が勝利した後は、小早川隆景の勧めによって秀吉に戦勝祝いを贈って接近します。また、人質を出して、秀吉に臣従しています。1591年には秀吉より112万石を安堵され、1597年には輝元は豊臣家の五大老に就任。徳川家康に次ぐ実力者となります。

1600年には石田三成らの説得を受け、関ヶ原の戦いでの西軍の総大将に担ぎ出されます。この際、一門や重臣には相談していなかったとされます。重臣の一人、吉川広家は、西軍が負けると判断して、すぐさま、黒田長政を通じて本領安堵と家名存続の交渉を開始。関ヶ原の戦いでは、吉川軍が毛利軍を抑える結果となります。輝元は、本戦には出陣せず、大坂城に籠もっていました。

大勢が決すると、輝元は家康に申し出て、毛利家の領地は安堵するとの言葉を貰い、大坂城を退去してしまいます。輝元が無能と評されるのは、この時の行動が最大の原因です。戦後、家康は、輝元が西軍に関与していた書状を多数押収し、その書状を元に37万石まで減封します。この時、毛利家当主に吉川広家を据えることになりましたが、その件は、広家が徳川家に直談判して、輝元の嫡男・秀就が家督を継ぐことになります。

ただし、実質的には輝元が差配し、輝元は37万石で家臣を養うべく、新田開発や特産品の生産の奨励を行います。その甲斐あって、10万石以上石高が上がりました。輝元は、内政に力量を発揮した武将だったと言えます。

→豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈

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