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豊臣秀長と徳川家康の関係は?正室(慶)と子供について


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      2016/03/17

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個性の異なる兄弟が、互いに補って戦国の世を生き抜く。『真田丸』では、真田昌幸と弟の信尹、真田信幸と弟の信繁の兄弟が、力を合わせる姿が、随所に描かれています。ドラマの中盤以降登場することが多くなる豊臣秀吉にも、自分を補佐してくれる頼もしき弟がいました。秀長です。

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秀長が長生きしていたら、徳川家康に豊臣家は滅ぼされなかった⁈

歴史に「もしも」ということは、しばしば囁かれます。必然で動く歴史。それだけに、一つの歯車の狂いに、後世の人が、「もしもあの時…」と思いを馳せることは、自然なことでしょう。そのような「もしも」が囁かれる事柄の一つに、「秀長が長生きしていたら?」というものがあります。

秀長は、天正19年(1591年)に病没しています。享年、52歳。豊臣家に暗雲が立ち込めだしたのは、秀長が他界したわずか1ヶ月後です。「内々の儀は宗易に」とまで言われ、秀吉の信頼が厚かった千利休に秀吉が切腹を命じたのは、秀長が病没した約1ヶ月後でした。

その後、秀吉は、朝鮮出兵に力を注いでいきます。しかし、朝鮮出兵は、臣従していた諸大名を疲弊させました。また、後継として育てていた秀次とその一族の命を奪い。それにより、秀頼を支えるはずの人間が多数失われました。秀吉と秀長の二人三脚で築かれた豊臣政権は、秀長の死を境に、秀吉によって破壊されて行ったというのが、一般的な見方です。

秀吉の死後、着々と勢力を伸ばした徳川家康。兄・秀吉を支えるうえで、秀長が家康と関わり合った機会は、少なくなかったと思われます。ただし、歴史に残る形で、両者が戦場以外で混じり合ったのは、ただ1回です。秀吉に臣従を表明するため、家康が上洛した時です。

秀吉は、天下統一を果たした後、諸大名を招集して臣従を誓わせました。大名の中で特に熱心に臣従を求めたのが、家康でした。しかし、家康は、臣従を拒み続けました。家康が上洛を果たしたのは、天正14年(1586年)。秀吉から姉と母を人質に差し出され、家康はしぶしぶ上洛を決意します。浜松城から大坂城に上洛したのは、10月24日でした。その時、家康は、秀長の屋敷に泊まっています。その晩、秀長邸に秀吉が自ら出向き、臣従を改めて求めたとされています。

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→石田三成は徳川家康と不仲ではなかった?意外なことが関ヶ原の戦いのきっかけ?

正室と側室の2人だけだった妻

秀吉が多くの側室を持ったうえに、女性関係も派手だったのに対して、弟の秀長は、正室の他には側室を1人しか持ちませんでした。戦国時代の武将としては、異例と言っても良いでしょう。

子宝になかなか恵まれなかったことは、秀吉同様ですが、3人の子供をもうけたことが知られています。嫡男・小一郎と娘2人です。小一郎は、本能寺の変以前に夭折しています。その後、男児を得られなかったため、秀次の弟・秀保を養嗣子としています。

娘2人のうち、長女は毛利秀元の正室になっています。次女が、従兄弟の秀保の正室になっています。秀長が没すると、家督は秀保が継ぎましたが、秀保は、4年後に早世します。それによって、秀長の家系は断絶しました。

秀長の正室は、出自が不明です。秀長の重臣・本多氏が実家とする説があります。小説の中では、法名の「慈雲院芳室紹慶」の一字をとって「慶」と呼ばれることもありますが、俗名は不明です。墓は、秀長の墓所・大徳寺大光院にありません。秀長の姉で秀次の実母が建立した善正寺に墓があります。そのため、秀長とは夫婦仲が覚めていたのではないかとも見られています。

→豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈

 - 登場人物


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