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豊臣秀次の最後は?側室30人も道ずれの悲劇!?


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三大武将と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。その中で、豊臣秀吉が唯一得られなかったのは、実子でした。子宝に恵まれず、秀吉は、養子を取っていきます。その中で、次代を継ぐと期待していたのが、秀次でした。「文禄」に改元したのは、秀次の関白世襲を広く世に知らしめるためだったと見られています。しかし、その直後、秀次の人生は暗転します。

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秀頼の誕生ですべてが変わっていく

秀次への権力継承が済んだ直後、淀殿の懐妊が判ります。若君か姫君か?文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が産んだのは、若君でした。晩年になって得た男児に、秀吉は歓喜します。

10月1日には、生まれたばかりの秀頼の婚約を決めます。相手は、秀次の娘。当時1歳の子供でした。仲介役として前田利家夫妻を、秀吉は選びました。すべては、秀次が湯治に出かけていた間に、秀次の頭越しに決められました。秀頼を溺愛する秀吉に、秀次の心身の状態は、次第に不安定になり、秀次は喘息の症状が強くなっていったとされています。

ただし、秀吉と秀次との関係は、表面上は仲睦まじいものでした。秀次は、北政所と吉野に花見に出かけたり、秀吉が大坂城で能を舞うのを見物したりしています。また、滋養に効くとして虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきた際には、秀吉に献じて、残りを秀次が食しています。そのような生活は、「事件」が起こる直前まで続きました。

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→豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈

文禄4年6月末からわずか1ヶ月あまりの出来事

文禄4年(1595年)6月末、秀次に謀反の疑いが掛かります。鷹狩りを口実として秀次を中心とする反秀吉一派が山中で落ち合って謀議を重ねているという噂でした。7月3日、聚楽第に石田三成らの奉行衆が訪れて、噂の真偽を詰問し、誓紙を出すように要求しました。秀次は、謀反の疑いを否定して起請文を認めました。

しかし、5日には、石田三成が、秀次は昨年春に家臣を毛利輝元のもとに派遣して独自に誓約を交わして連判状を認めていたと讒言。秀吉から「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として伏見城に出頭するよう、命じられます。秀次は、事実無根としてすぐに応じませんでした。

8日、5名の使者が秀次のもとを訪れ、伏見に出頭するように重ねて秀次に促しました。この時、使者となったのは、秀次の元養父や宿老たちでした。秀次は伏見に出頭しますが、登城も拝謁も許されず、上使に高野山に登るように告げられます。秀次は、剃髪染衣の姿となって、伏見を出立。10日には高野山に入りました。

15日、高野山に3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命を伝えます。この時、木食上人が、寺法によって無縁の原理が認められると抗議して、切腹を阻止しようとしましたが、秀吉に逆らえば、高野山の寺院そのものが失われると恫喝され、秀次は切腹を受け入れます。辞世は「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。

検使が持ち帰った秀次の首を、16日に検分した秀吉は、秀次の係累の根絶に掛かります。7月8日にすでに捕らえて監禁していた秀次の妻や側室らを、7月31日には京都の徳永邸に戻します。8月1日には翌日に処刑を実施すると告げます。

8月2日には、三条河原で処刑が行われました。処刑場は、40メートル四方。堀を掘って、鹿垣を結び、3メートルほどの塚を築いて秀次の首が据えられました。その首が見下ろす前で、係累が次々と斬首されました。最初に処刑されたのは、子供たちでした。若君4名と姫君が処刑されました。

妻や側室では、秀次が最も寵愛していた一の台が、北政所の助命嘆願にもかかわらず、真っ先に処刑されました。側室、侍女、乳母ら合計39名。
子供の遺体の上に母親の遺体が無造作に折り重なる惨状に、観衆の中から奉行に対して罵詈雑言が発せられたと言います。処刑には数時間が掛かりました。処刑後、大量の遺体は、まとめて一つの穴に投じられました。この穴を埋めた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれ、首塚が作られました。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が刻まれました。秀次ら一族の処刑の様子は絵巻に描かれ、瑞泉寺に遺されています。

→本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉というのは本当か?予想考案!

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