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石田三成は徳川家康と不仲ではなかった?意外なことが関ヶ原の戦いのきっかけ?


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慶長5年(1600年)9月15日に美濃国関ヶ原を主戦場として行われた野戦が、関ヶ原の戦いと呼ばれる合戦です。実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった関ヶ原の戦い。2016年の大河ドラマ『真田丸』では、中盤の見所となる合戦です。

この時、真田家の人々も敵味方に分かれることになります。実際の戦いは1日で大勢が決したものの、そこに至る道のりは長いものでした。

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豊臣政権下の軋轢が噴出した石田三成襲撃事件

関ヶ原の戦いの遠因は、豊臣秀吉の朝鮮出兵をめぐる現地武将と、中央の秀吉や秀吉の意向に従って行動する石田三成ら奉行衆との対立にありました。

天下統一を果たした秀吉は、覇権の拡大を狙って朝鮮出兵を敢行。豊臣政権の内部には、それ以前から、軍事面で政権成立に貢献してきた「武断派」と、内政・経済・宗教管理などの戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立が存在していました。その対立が目立つようになったのが、慶長の役以降です。

秀吉本人や秀吉の弟・豊臣秀長がいる間は、両派の対立は、かろうじて表面化することが避けられていました。しかし、秀長が天正19年(1591年)に死去。慶長の役の遂行方針や賞罰をめぐって、武断派と文治派の溝は、埋めがたいものになって行きます。

慶長3年(1598年)8月18日には、秀吉が死去。10日後の28日には、早くも遺令破りが行われます。顕在化した武断派と文治派の対立。五大老の徳川家康は、文治派による専制や集権体制の解体を図り、以降、武断派は家康との連携を強めるようになります。

徳川家康は、他にも禁止されていた大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、諸大名とのつながりを強めていきます。こうした家康の動きを強く糾弾したのは、五大老の前田利家でした。家康と利家は、武力衝突寸前まで行き、互いに誓書を交わして、かろうじて衝突を回避します。その前田利家が死去したのが、慶長4年(1599年)。武断派の七将は、文治派の筆頭・石田三成に対する襲撃事件を実行します。

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→真田信繁と石田三成は親戚だった⁉︎山手殿の出自に謎!

襲撃事件の引責によって蟄居させられた石田三成が家康の留守を狙う

襲撃事件は、結果としては失敗します。武断派の動きを察知した三成が、伏見城内の自分の屋敷に立てこもったからです。難を逃れた三成は、家康の仲介で、事件の責任を取らされることになります。奉行職を解任され、三成は佐和山城に蟄居させられます。

その後、家康は着々と勢力を拡大させます。家康が上杉景勝に上洛するよう要請した時、景勝の重臣・直江兼続が猛然と反発し、挑戦的な態度で家康を批判したことから、家康は、上杉征伐に出陣します。この時、家康は、豊臣秀頼の命として出陣しています。

家康が江戸に下るとの報を受けた三成は、家康の留守を狙って挙兵します。西国大名に働きかけ、家康を討ち果たす決意を固めて動き出します。

7月11日、三成は、盟友・大谷吉継に家康打倒を打ち明け、吉継を自分の陣営に引き入れます。7月12日には、秘密の会議を開いて、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定。要請を受けた毛利輝元は、7月17日に大坂城に入城します。輝元は、家康側の割拠していた西の丸を無血接収。西軍の総大将に就任します。輝元が総大将に就任したことで、中国・四国・九州の諸大名は、追従しておよそ10万の兵力となります。

一方、家康が、会津征伐に従軍した諸大名を招集して軍議を催したのは、7月25日。評定では、ほぼすべての従軍諸将が家康に従うことを誓約しました。この時、西軍に退転したのは、真田昌幸と田丸直昌でした。翌26日以降、会津征伐に従軍した諸将は、続々と陣を払い、関ヶ原の戦いの前哨戦が始まります。

前哨戦が始まる前から、西軍の中には、東軍への内応を画策する武将もいました。家康は、関ヶ原の戦いについて、あくまで豊臣家に仇を為す者を成敗するとの建前をとり、豊臣家も表向きは静観の立場を取ったとされています。

→豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈

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