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真田丸で新井浩文が演じる加藤清正とはどんな武将なのか?


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『真田丸』では第15回あたりから登場が予定されている加藤清正。新井浩文が演じることになっています。真田信繁が石田三成の屋敷に滞在している時に、清正が三成の屋敷にやってきて酒を飲むシーンもあるとか。仲の良い2人が、次第に立場の違いから対立していく様が描かれるものと予想されます。熊本県では、現在も非常に人気が高い加藤清正。どのような武将だったのでしょうか?

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豊臣秀吉の子飼いとして活躍

清正は、永禄5年(1562年)に刀鍛冶の加藤清忠の子として生まれます。父は、清正が幼いうちに他界します。母の伊都が羽柴秀吉の生母・大政所の従姉妹であったことから、清正は、天正元年(1573年)、秀吉に小姓として仕えるようになります。

清正は、秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられます。天正4年(1576年)には170石を与えられます。正室として迎えたのは、近江の守護大名・佐々木氏の一族の山崎片家の娘です。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加。翌年には賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国を討ち取ります。この武功により、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられます。

この後も、清正は、小牧・長久手の戦い、四国征伐に参加しています。ただし、そのほとんどは、秀吉の周囲を守るか後方支援だったとされています。この時期、清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割だったと見られています。
天正14年(1586年)からは、秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となります。佐々成政が失政により改易されると、佐々氏に替わって肥後北半国19万5000石を与えられ、熊本城を居城としました。

清正が肥後半国を与えられたのは、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いたため、長年代官を務め、九州平定に際しては上使として派遣され、現地の事情に通じていた清正が適任と考えられたものとされています。

肥後における清正の治績は良好で、治水事業に優れた手腕を発揮したほか、田麦を特産品化して南蛮貿易の決済に当て、商業政策でも手腕を発揮しました。

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秀吉の死後は徳川家康に接近

文禄・慶長の役では、朝鮮に出兵し、朝鮮の民衆からは「鬼上官」と恐れられる働きをしました。しかし、戦況の報告で、石田三成と摩擦が生じ、以降、三成との仲は悪くなります。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近。家康の養女を継室として娶ります。

慶長4年(1599年)3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長らの七将の一人として石田三成暗の命を奪おうと計画します。しかし失敗したことで、清正は、家康への接近を強めていきます。

しかし、家康が五大老として事態の収拾を図っていた庄内の反乱において、主家に反旗を翻した伊集院忠真を清正が支援していたことが発覚。背信行為として家康は激怒します。家康は、清正の上洛を禁じます。

その後、関ヶ原の戦いが起こります。家康から事実上の謹慎を命じられていた清正の動向は、西軍の武将たちの注目を集め、毛利輝元らは西軍に味方するよう、説得します。しかし、清正は、黒田如水と連絡を取り、家康に協力する約束を交わします。

関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半国を与えられ、52万石の大名となります。慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に、家康側の家臣として臨みます。帰国の途中の船内で発病し、6月24日、熊本で死去。享年50歳でした。

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