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秀吉はなぜ千利休に切腹を命じたのか?大河ドラマでかつて採用された説は?


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大河ドラマ『真田丸』では、第15回から登場する予定になっている千利休。「利休」というのは、1585年(天正13年)10月に秀吉の禁中献茶に奉仕した際、宮中に参内するために勅賜された居士号です。この時、利休は、63歳。その後、利休と秀吉は蜜月状態になりますが、利休は、秀吉から切腹を命じられ、69歳で亡くなります。なぜ、秀吉は利休に切腹を命じたのでしょうか?

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蜜月状態の後に生じたさまざまな亀裂

『真田丸』に登場する利休は、茶席で見立てた人物像を秀吉に伝え、間接的に秀吉の政に関わります。実際の利休も、秀吉の政に大きく関わっていたようです。大友宗麟が、大坂城を訪れた際に、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされたという話は、有名です。

利休という居士号を賜った後、1587年(天正15年)には、北野大茶会を主管し、秀吉の重い信任を受けています。黄金の茶室の設計を行ったのも、利休です。

しかし、その後、利休は、次第にわび茶の完成に向かっていきます。草庵茶室の創出、楽茶碗の製作、竹の花入の使用など、今日、利休の茶道として有名なものは、いずれも、利休の晩年に完成されたものです。そのような美意識は、派手好みの秀吉とは、真っ向から対立するものでした。秀吉と利休の間には、次第に亀裂が目立つようになります。

利休が、茶道で秀吉への不満を募らせるようになったのは、秀吉の命令で黄金の茶室で「大名茶」と呼ばれる茶を点てた頃からとされています。利休は、信楽焼きの茶碗を作るようになりますが、秀吉はそのことに憤慨して、信楽焼きの茶碗を処分するように命じたと言われています。しかし、利休は、処分しようとせず、そのことが秀吉の逆鱗に触れたとも言われています。

その他、天皇陵の石を利休が勝手に持ち出して、手水鉢や庭石などに使ったことを秀吉が怒ったとも、秀吉が娘を奉公させるようにと請うたにもかかわらず、その要請を拒否したことが、秀吉の怒りに触れたとも言われています。ちなみに、秀吉が気に入ったのは、利休の次女で、利休の弟子の万代屋宗安のもとに1576年(天正4年)頃に嫁いでいます。秀吉から声が掛かったのは、1589年(天正17年)とされています。

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→本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉というのは本当か?予想考案!

『軍師官兵衛』で採用された説は?

利休には、安心できる後ろ盾がいました。豊臣秀長です。しかし、秀長は、1591年1月22日に病没します。利休に対する秀吉の態度が急変したのは、その1ヶ月後。2月23日、利休は、秀吉から突然、「京都を出て、堺にて自宅謹慎せよ」と命じられます。

秀吉を激怒させた理由として、『真田丸』とほぼ同時代を描いた大河ドラマ『軍師官兵衛』では、利休に2つの問題があると秀吉に吹き込んだ者がいたということになっています。その一つは、大徳寺の楼門の二階に利休の木像が設置されているということです。像は雪駄履きの利休を象ったもので、その楼門を秀吉もくぐったことから、秀吉の頭を踏みつけにした増上慢を問題視したのです。もう一つは、安価な茶器を利休が高額で売り渡しているという話です。『軍師官兵衛』では、いずれも石田三成が秀吉に告げ口したという描き方をしていました。

秀吉は、自宅謹慎を命じ、利休に詫びる機会を与えたとされています。秀吉の意を汲んだ前田利家は、利休のもとに使者を送り、秀吉の正室か母を通じて詫びれば、許されるだろうと助言します。しかし、利休は、権力の道具としての茶の湯は、茶の湯そのものを侮辱することになるとして、詫びることを拒否します。

2月25日、大徳寺の利休像は楼門から引きずり下され、一条戻橋のたもとで磔にされます。26日には、秀吉は利休を京都に呼び戻します。利休が切腹を命じられたのは、28日のことでした。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休の奪還を図る恐れがあるとして、秀吉の命を受けた上杉景勝の軍勢が、屋敷を取り囲んだと伝えられています。命を落とした後、利休の首は、一条戻橋で梟首されました。

→豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈

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