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豊臣秀吉・織田信長・徳川家康!三大武将の真実とは⁈


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通説に感じられる不自然さ。年齢的なものだったり、人間関係だったり。そのような不自然さをすっきり解消してくれる秘話は、歴史の影にいつも隠されています。そのような秘話は、戦国時代の三大武将と言われる、豊臣秀吉・織田信長・徳川家康にも隠されています。

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秀吉の跡取りは秀吉の実子ではなかった⁈

可愛がっていた側室・茶々との間に晩年にもうけた息子たち。最初に生まれた息子は、早逝しますが、無事に成長して大坂の陣に深く関わることになる秀頼は、実は、秀吉の子ではないと囁かれています。

秀吉は、正室の他に16人の側室を持っていたとされています。しかし、正室との間に子供が授からなかったばかりか、数多の側室も、秀吉の子は身ごもりませんでした。秀吉の側室となる前に、結婚相手との間に子をもうけた女性もいます。秀吉が伊達政宗に与えた側室は、伊達政宗との間に子を授かっています。それにもかかわらず、秀吉との間には子供ができませんでした。

子宝に恵まれなかった秀吉。唯一、子をもうけたのが、茶々でした。茶々は、1588年頃に秀吉の側室になっています。翌1589年には、鶴松を出産。鶴松は、1591年に早逝しますが、1593年には秀頼を産んでいます。

なぜ、茶々だけ子供を産んだのか?父親を秀吉以外の男とする見方がなされています。茶々の相手として有名なのが、大野治長です。治長の母は、茶々を幼い頃から世話してきた乳母でした。茶々と治長とは、乳兄弟にあたり、治長は茶々とたびたび顔を合わせる機会があったものと考えられています。また、治長は、茶々と秀頼が自害した時には、その死に殉じています。

→豊臣秀吉の性格を簡単にまとめると人たらしだった!

信長は茶々の実の父親だった⁈

茶々は、浅井長政とお市の方との間にできた最初の子とされています。しかし、お市の方が長政に嫁いだのは、21歳。当時としては晩婚に過ぎることから、この結婚は二度目のものではなかったかと言われています。では、最初の夫は誰だったのか?お市の方は、信長の妹とされていますが、この関係に疑問を持つ人もいます。直接血のつながりは無かったと考える立場の人もいます。

また、信長に対するお市の方の態度にも、そうした憶測を裏づけるものがあります。有名な逸話が、朝倉氏攻略の際の陣中見舞です。元亀元年(1570年)、信長は朝倉氏攻略を開始しました。これを怒った浅井氏は、行軍中の信長を朝倉氏と挟み撃ちにしようとします。それを知ったお市の方は、早速、陣中見舞を信長のもとに送ります。その時、送ったのは、袋に入れた小豆でした。袋の上下が縄でくくられ、受け取った信長は、「袋の中のネズミ」の意を悟って、危地を脱したと言われています。

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→豊臣秀吉の死因に隠された謎とは?

家康のもとには光秀が仕えていた⁉︎

本能寺の変の後、落ち武者狩りで命を落としたとされる明智光秀。しかし、その首は傷みが激しく、本物の光秀は生きていたとする見方もなされています。

信長の後に急速に勢力を伸ばした豊臣秀吉を憚って、秀吉が生きている間は息を潜めて暮らしていたというわけです。そうした説を裏づけるように、秀吉が死んで、豊臣方の勢力が衰えた途端、「光秀」の名前で比叡山に石灯籠が寄進されています。

光秀が生きていたとする説で有力なのは、徳川家康の治世に意見を述べることができた、僧侶の天海を、光秀と同一人物とする見方です。家康が天海を駿府に招いて初めて公式に対面したのは、慶長13年(1608年)とされています。しかし、その前に家康は、比叡山の復興という大きな仕事を任せています。そのことから、もっと早くから天海という人物をよく知っていたのではないかと考えられています。

天海が関わった件で最も有名なのは、方広寺鐘銘事件です。徳川家康が豊臣家を攻撃する口実となった事件です。そのきっかけを作った天海は、豊臣家に強い怨みを抱いていたと見られています。また、天海は、光秀のお膝元であった坂本の復興に尽力していることから、天海を光秀と同一人物とする見方がなされています。

→豊臣秀吉の家紋にある都市伝説とは?300年越しの報復⁉︎

 - 歴史, 登場人物


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