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豊臣秀吉の性格を簡単にまとめると人たらしだった!


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「鳴かぬなら鳴かせてみようほととぎす」で有名な豊臣秀吉。工夫を凝らして戦果をあげ、人脈を広げていった戦国武将です。当時の武将の多くが槍働きで出世していったのに対して、秀吉は才知によって出世していきました。現代のビジネスマンに人気の高い武将です。その性格を簡潔に一言でまとめるなら「人たらし」。人の心をつかむことに長けた人物ということです。相手がどのように考えるのか?第三者はどのように評価するのか?そうしたことに敏感だったのが、秀吉という人物でした。

toyotomihideyoshi

自分の行為を他者がどのように評価するかに敏感

秀吉は、木下弥右衛門となかの間に、天文3年(1537年)に生まれたとされています。ただし、一次資料となるような文献に秀吉のことが記されるようになるのは、実は秀吉が30歳くらいになってからのことです。前半生は、よく知られていないというのが、実情です。

そのような卑賎の出身だったため、織田家に出仕しても、当初は、大した仕事も回されませんでした。このままでは自分の名前が他の家臣たちに知られる機会がないと考えた秀吉。買ってでたのが厠掃除でした。小用を足す桶の真下での掃除。そこに人がいると気づかずに用を足す織田家の家臣がいると、秀吉は、大声で、「何をなさるのですか!人が掃除をしているのに!」と怒鳴ったとのこと。小者とはいえ、悪いことをしたと感じるのが普通。詫びつつ、その小者に名を尋ねる家臣が多く、その度に「先ほど織田家に足軽として仕えることになりました。木下藤吉郎と申します。」と名乗ったと言われています。

織田家で出世しだした頃には、敵の武将を通して自分の名を広めることも始めます。美濃を攻略する時には、主君・信長がころせと命じた敵の武将を逃します。「すぐに逃げられよ」と言って刀を捨てて、万一の時には自分を人質にするように申し出たとも。その武将が感激して、自分の評判を広めることを計算してのことだったとされています。

織田家の重臣・柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の合戦では、傷ついて憔悴している兵たちが太陽に照らされて苦しんでいるのを見て、近隣の百姓から笠を買い集めてこさせ、敵味方の別なく、負傷した兵に被せてやるように命じたと伝えられています。「誠に天下を治め給うほどの大将は、かく御心の付き給うものかな」と評されたと言われています。

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→豊臣秀吉の死因に隠された謎とは?

相手に応じて対応を変えて味方に取り込む

秀吉は、出世の階段を上っていく上で、数々の人を味方に取り込んでいます。礼を重んじる相手には礼を尽くし、利に敏い相手には恩賞で、自分につくように仕向けています。

秀吉の天下取りに最初に尽力した竹中半兵衛を味方につける際には、三顧の礼をもって迎えたとされています。竹中半兵衛は、名誉欲の無い人柄であり、信長に好意を抱いていませんでした。そのため、信長の家臣として秀吉が助力を仰ぎに来ても、当初はすげなく帰していました。しかし、秀吉は繰り返し半兵衛を訪ね、ついに秀吉の天下取りのために尽力する気持ちにさせたと言われています。

賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を滅ぼした後は、上杉家と隣接することになりました。その際には、越中と越後の国境にある落水(おちりみず)にわずかな供回りで出向きます。この時、伴ったのは、石田三成と数名だったとされています。その地で、秀吉は上杉家の当主・上杉景勝と重臣・直江兼続に会見を果たしています。世に言う落水の会見です。

また、長らく敵対関係にある徳川家康からも、重臣の引き抜きに成功しています。引き抜いたのは、石川数正。家康が今川義元の人質だった頃から家康に仕えていた古参の近習です。その石川数正も、家康のもとを出奔して秀吉へと走っています。『真田丸』では、数正の出奔は第14回に描かれ、その際、真田昌幸の弟・信尹の働きかけによるものとされています。敵の重臣をいかにして寝返らせるかということは、戦国時代には重要な手腕とされていました。そうした手腕に長けた武将に、秀吉は数えられています。

→豊臣秀吉の家紋にある都市伝説とは?300年越しの報復⁉︎

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