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豊臣秀吉の死因に隠された謎とは?


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戦国時代の終焉に力を示した3人の武将。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。2016年の大河ドラマ『真田丸』では、織田信長の最期を第4回「挑戦」の最後できわめてあっさりと描いています。本能寺の変の描き方では、最もシンプルだったのではないかと話題になりました。暗さつによって最期を迎えた織田信長。俗説では天ぷらの食べ過ぎが死因とされる徳川家康。では、豊臣秀吉の死因は、どのようなものだったのでしょうか?

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落日のように衰えていった秀吉の晩年

『真田丸』では、関白となった秀吉と真田信繁が、意外な出会いを果たすことになります。関白として登場する豊臣秀吉。

秀吉が関白となるのは、本能寺の変で信長が横死した3年後のことです。その間、柴田勝家との確執、徳川家康との争いがありました。そのような出来事を経て、秀吉は、1585年に大坂城を築城し、最高位の関白太政大臣に上り詰めます。関白太政大臣になった秀吉は、朝廷から豊臣の姓を授与され、五七桐の家紋を賜ります。

朝廷の臣となった秀吉は、京都に豊臣家の本邸・聚楽第を建立して、聚楽第で執務を行うようになります。朝廷から姓と家紋を賜り、秀吉にとっては、まさに頂点を極めたのが、この頃です。

1589年には、側室の淀殿が嫡男の鶴松を出産。1590年には、小田原城攻めの時に参戦した伊達政宗を配下におさめ、ついに全国統一を果たします。主君・織田信長も果たせなかった天下統一を果たした秀吉。

その後、秀吉の人生は、落日のように傾いていきます。1591年には、嫡男の鶴松が早逝。弟の秀長も病死します。千利休に切腹を命じたのも、この年。後に秀吉は、千利休に切腹を命じたことを悔いたとされています。1592年には、二度に及ぶ朝鮮出兵が惨敗。

その後、淀殿は、第二子・秀頼を出産します。傾きだした豊臣家の中で生まれた男児。秀吉は、秀頼を溺愛します。養子の秀次は切腹させます。

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→豊臣秀吉の家紋にある都市伝説とは?300年越しの報復⁉︎

不運を払拭しようとした花見の後で体調を崩す

キリシタンとの関係は悪化し、秀吉はキリシタンを弾圧するようになります。また、地震も起こりました。その地震で伏見城が倒壊。地震が天意を表すと考えられていた時代、地震による倒壊は、忌まわしい出来事でした。

そのような不運を払拭しようとして催されたのが、1598年3月の花見です。醍醐三宝院で催された花見は、盛大なものでした。しかし、この花見の直後に秀吉は体調を崩します。

5月には、下痢、腹痛、食欲不振がひどくなり、手足にも激痛が走るようになります。痩せ衰え、見舞ったロドリゲスは、「干からびたかのように衰弱しており、ぼろぼろになっている。まるで悪霊のようで人間とは思えない。」と記しています。ロドリゲスは宣教師だったため、キリスト教に理解のある人物は好意的に描写し、キリシタンに好意的でない人物への評は厳しかったとも言われていますので、多少差し引いて読むとしても、急速に痩せていったことが伺えます。

漢方薬も効かず、時に精神錯乱も見られ、失禁もあったと言われています。8月18日に永眠。享年、62歳。秀吉の死は、しばらくの間、秘されました。亡骸は、伏見城中に置かれ、遺体が阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬されたのは、1599年4月のことです。埋葬に際しては、朝廷から「豊国大明神」の神号と正一位の神階を賜っています。神として祀られたため、葬儀は執り行われませんでした。

秀吉の死は、戦国時代の再来を思わせるものだったためか、秀吉の後に天下統一を成し遂げた徳川家康によって史料が破棄されたためか、その死因に関する史料は、残されていません。

ただし、18世紀に朝鮮で編纂された『燃藜室記述(ねんれいしつきじゅつ)』という歴史書には、「秀吉は沈惟敬(ちんいけい)によって毒により命を落としたとされた」とあります。沈惟敬は、明の使節として、秀吉が没する2年前に来日しています。沈惟敬の来日から秀吉の死まで2年あることから、この記述には無理があるとする意見と、秀吉が死の直前に示した精神錯乱や失禁は、ヒ素を飲み続けた時に発症する症状であることから、毒で命を落としたとの可能性を否定できないとする意見があります。

→真田信繁が豊臣秀吉の人質となった経緯と秀吉のもとでの生活は?

 - 歴史, 登場人物


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