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徳川家康の影武者説の信憑性は?語り継がれる2つの理由!


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戦国時代の名だたる武将に必ずと言って良いほど存在したのが、影武者。真田信繁にも影武者がいたとされますが、影武者説が、非常に有名になり、学会を交えて論じられたのが、徳川家康です。俗説では、天ぷらを食べ過ぎて死んだという家康は、影武者だったとか。諸説取り混ぜて語り継がれる家康の影武者。なぜ、語り継がれるのでしょうか?

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有名な2つの影武者説

徳川家康には影武者がおり、後世に知られる徳川家康は実は影武者だったとする説を最初に世に広めたのは、村岡素一郎という人です。民友社から明治35年に出版された『史疑・徳川家康事蹟』という本に、家康と名乗った武将は、本当の家康の影武者だったとする考えが述べられています。この本は、大きな反響を呼びましたが、それだけに徳川氏の一族や旧徳川氏の幕臣たちの反発が大きく、民友社からこの本が再び出版されることはありませんでした。

村岡素一郎は、徳川家康は、桶狭間の戦いの数年後に不慮の死を遂げていること、この時、嫡男の信康がまだ幼かったため、その死を隠して、信康が成長するまで、身代わりとして世良田二郎三郎元信という人物を立てたこと、この世良田二郎三郎元信が清洲同盟にて織田信長と同盟を結んで、その後、松平元康から徳川家康に改名したことなどを主張しました。

村岡説は、長らく放置されていました。再び注目されるようになったのは、昭和30年代になってからです。村岡説を下敷きにした小説が、いくつか出版されるようになりました。中でも、広く流布したのが、隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』です。隆慶一郎は、村岡説では、家康が入れ替わった時期が早すぎるとして、入れ替わりを家康の人格が変わった1600年頃とし、起点を関ヶ原の戦いとしました。

隆慶一郎の小説は、漫画版としても出版され、1994年から1995年まで『週刊少年ジャンプ』で連載されました。また、テレビドラマとして、1998年にはテレビ朝日で高橋英樹主演のドラマが放送されています。近年では、2014年テレビ東京の『新春ワイド時代劇』に西田敏行主演で放送されています。

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→徳川家康の側室!阿茶局・お梶・お夏について

なぜ影武者説が語り継がれるのか?

最初に徳川家康の影武者説を広めた村岡素一郎が着眼したのは、嫡男・信康にまつわる家康の動きとその周辺事情でした。家康の嫡男・信康は、生母・築山殿と共に、天正7年(1579年)に家康によって死を与えられています。事件は、信康と築山殿が、信長の宿敵である武田勝頼と内通していることを知った信長が激怒して、家康に信康と築山殿の処分を求めたものとされています。

この事件は、当時の信長と家康の力関係を如実に示すものですが、村岡素一郎は、清瀧寺にある信康の墓所が質素であり、後に改葬された様子もないことから、信康を実子ではないと考えるのが妥当としました。また、家康の重臣・石川数正が天正13年(1585年)に出奔して豊臣秀吉のもとに走ったのも、信康切腹事件を恨みに思ったものと指摘しました。数正は、信康の後見人として岡崎衆を率いてその補佐に努めており、信康が成長すれば、徳川の家督は信康が継ぐものと信じていただけに、信康の死に大きな衝撃を受けたと、村岡素一郎は指摘しています。

もしも、信康が実子ではなかったと考えると、信康を処分したのも、実子に家督を継がせたいとの思いだと考えられると、村岡素一郎は主張しています。そのため、信康切腹事件以前に、影武者との入れ替わりが生じたのだと、村岡素一郎は考えています。

隆慶一郎の主張は、いわゆる大御所政治の時に、家康が駿府に政庁を開き、幕府とは別に人材を集めて、徳川秀忠の発給文書と別の二重文書を発行していたという史実から発想を得たものです。なぜ、家康が人格が変わったかのような振る舞いをしたのか?入れ替わりが起こっていたと考えると、納得しやすいというのが、隆慶一郎の主張です。

→徳川家康の意外な性格!特徴としてあげられる3選!

 - 歴史, 登場人物


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