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真田信之は長寿だった!?晩年はどのように過ごしたのか?


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大河ドラマの中で、父・昌幸に「戦国の世が終わり、荒れ果てた土地を耕して再び立て直す時こそ、その几帳面さが生きてくる」と評される真田家の嫡男・信之。関ヶ原の戦いで父や弟と袂を分かち、徳川家康につきます。「信之」と改名したのも、この時。以降、信之は、真田の家を守る人生をそれまで以上に厳しく守り抜くことになります。

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父と弟の助命を嘆願し、後に松代への転封を受け入れる

関ヶ原の戦いで西軍に味方した将は、いずれも厳しく罰せられました。徳川軍本隊を引きつけて10日もの間、無駄にさせ、関ヶ原の決戦に間に合わないように仕向けた昌幸と信繁も、厳罰の対象でした。信之は、父と弟の助命を嘆願し、舅の本多忠勝も「忠孝の道こそ武士の道。伊豆守は、武士の誉れ。孝行を言う苦衷の心をお察しくだされ」と援護したと言います。

昌幸と信繁は、九度山にて蟄居生活を送ることになり、信之は、後日、6万8000石の加増を命じられます。以降、信之は、徳川幕府を支える大名として仕えることになります。信之が仕えたのは、家康にとどまりません。家康、秀忠、家光、家綱と、四代の徳川将軍家に仕えています。大きな転機となったのは、元和8年(1622年)10月のこと。信之は、上田から江戸に呼び出され、松代への転封を命じられます。松代の前身は、武田信玄が高坂昌信に築かせ、川中島合戦の主要地でもあった海津城でした。幕府は、松代をきわめて重要な土地と位置付けていました。

ただし、信之にとって、上田は先祖伝来の土地であり、上田城は父・昌幸の作品でもありました。家臣団は不満をあらわにしたと言います。信之は、自らの不満を現さず、「真田家として面目も立ち、外面・内実とも良いことである」と伝えたとされています。そして、信濃の中心地を所領としたのだと諭したと言われています。この転封で、信之は3万5000石を加増され、13万石になりました。

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→真田信繁と黒田官兵衛はどちらが優秀な武将なのか?

お家騒動を治める

信之は、高齢になってからたびたび隠居願いを出していますが、なかなか認められませんでした。隠居が許されたのは、明暦3年(1657年)。信之、91歳の時のことです。幕府の許可を得た信之は、真田領13万石のうち、松代10万石を二男の信政に、沼田3万石を長男の息子・信利に与えました。ところが、信政が、6ヶ月後に急逝。残ったのは、信政の五男で、当時、わずか2歳の右衛門佐だけでした。

真田家にはお家騒動が起こりました。信利が、松代城主の座を狙ったのです。信利の母は、幕府の実力者・酒井忠清の叔母にあたり、忠清は信之に圧力をかけました。この時、信之は、「真田の魂、武門の意地に掛けても、松代は右衛門佐に譲る」とし、信之の気概に家臣団も動かされたと言います。結局、信之が後見になることで、幕府は右衛門佐幸道の家督相続を許します。信之は、亡くなる直前まで、後見を務めたとされています。なお、信利は、その後、不行跡のために改易処分となっています。信之の慧眼が当たったことになります。

→真田信繁と上杉景勝の関係は?信繁の出仕を景勝はどのように迎えたのか?

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