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大阪夏の陣の後の真田信繁は薩摩落ちした⁈


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敗れた猛将への哀悼の念から、その武将が実は生きていたという言い伝えは、枚挙にいとまがありません。大阪の陣で勇名を馳せた真田信繁も、そうした生存説がささやかれる一人です。

実在の真田信繁は、慶長20年(1615年)5月7日、徳川家康の本陣を強襲した後、疲れた体を休めているところを越前松平家鉄砲頭の西尾仁左衛門に討ち取られたとされています。享年、49歳。しかし、そうした最期は、勝者によって作られたものだとする説もあります。

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信繁は大阪冬の陣の後の講和期間に影武者を使っていた⁈

大阪城に入った信繁は、まとまらない豊臣方の姿を間近に見ることになります。ろくに戦場に出たこともなく、持ち場を決めることすらできない人間が、あれこれ戦法を述べ合う会議。

戦場経験がある者の意見は、浪人の言うこととしてまともに取り上げられず、信繁は、独自路線を歩む決意を固めます。そうして築いたのが、真田丸でした。自らを囮として迎撃するための出城として、真田丸は築かれたと言います。

真田丸によって、信繁は徳川方を退けることに成功し、戦いは休止。講和が結ばれます。その休戦期間に、信繁は、敵方となっていた親族や旧友を招いたり訪れたりしたと言います。その際、実際に親族や旧友に会ったのが、本人ではなく、影武者だったという説があります。

信繁は、自分に最もよく似ていると言われる穴山小助を従えており、講和がなった際には、穴山小助を自分の代わりに親族や旧友のもとにやっていたとされています。九度山での蟄居生活によって、信繁は老け込んでいたため、皆、穴山小助を信繁本人と思い込んだと言います。

大阪夏の陣の決戦の日には、穴山小助を含め、信繁の影武者たちは、同じ武装をし、「我こそは真田信繁なり」と名乗りを上げたとされています。そのため、徳川家康のもとには、「信繁の首」がいくつも届けられました。首実検の結果、停戦中に信繁として親族や旧友に会っていた穴山小助の首が、信繁のものとされたと言われています。

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→真田信繁の娘お梅のその後はどうなったのか?意外な結末とは?

大阪城の落城直後から伝わる俗謡

影武者を周到に用意した信繁は、豊臣秀頼を助ける算段をしていたとされています。城の抜け穴を通って城外に出た信繁と大助は、秀頼を守りながら、薩摩に渡ったとされています。

大阪夏の陣の後に上方では、「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり 加護島へ」という俗謡が流行ったと言います。秀頼は、大阪城が落城した折、遺体が発見されておらず、生存説が落城直後から囁かれていたようです。

薩摩に到着した秀頼一行は、ひっそりと暮らしていましたが、信繁は、長年の心労が重なって病気に罹り、翌年の秋に他界したと言われています。その後、秀頼も気落ちして、間もなく信繁の後を追うように病で命を落としたとされています。信繁の墓とされる石が、田原家私有林にひっそりと建っています。

別の説では、しばらく薩摩で暮らした信繁、大助親子は、巡礼姿で諸国を巡り、奥州大館に落ち着いたと言われています。大館では、真田紐を編んで生計を立て、後に酒造に転じて信濃屋を号したとも言われています。信濃屋は寛永18年(1641年)に75歳で没し、その墓石には「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれているとされています。

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