大河ドラマネタバレ考案速報

大河ドラマのネタバレ感想サイト!

*

真田信繁が最後に子供達を託したのは意外なあの人だった!


《注目記事》U-NEXTで真田丸が無料で見逃し配信中!

   

スポンサーリンク

大阪の陣で真田信繁が見たのは、戦場にろくに出たこともない武将達のまとまらない姿でした。真田丸を構築していったんは徳川方を退けたものの、豊臣方の敗戦は明らか。「あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただ一つのみ」とつぶやく信繁。自らは死を決意すると、遺される子供達のことを一人の武将に託したとされます。

sanadamaru

大阪夏の陣決戦の前夜

数ある子供の中で、信繁が最も行く末を案じたのが、当時12歳になっていた三女の阿梅でした。阿梅は容姿端麗だったとされます。固い蕾がほころびようという年齢の阿梅。阿梅は、確かな男と娶せたいと願った信繁が、心を寄せたのが、徳川方に参陣していた伊達政宗の重臣、片倉小十郎重長だったと言われています。

大阪夏の陣の決戦の前夜、片倉小十郎重長の陣中には、阿梅が送られてきたとの説があります。この時陣中に送られてきたのは、阿梅だけでなく、信繁の2人の娘・阿菖蒲とおかねと次男の大八も一緒だったとする説もあります。決戦の前夜に陣中に送られてきたのは、阿梅だけであり、信繁の他の子供達は、信繁の家臣・西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、信繁のが亡くなった後、その意向を受けて片倉小十郎重長のもとを頼ったとする説もあります。

特に男児であった大八については、徳川幕府の詮議が厳しく、信繁の息子が生きているとの噂が立ったために、子供の時に京で石投げ合戦の石に当たって亡くなったとの虚報を流し、その虚報を公式の記録にするといったことも行なわれています。大八は元服後は、真田守信を名乗りましたが、1640年には江戸幕府から伊達家に守信の出自の調査命令が出されています。伊達家は、守信を真田信尹の次男・正信の子だと偽証し、守信はこの時、片倉守信と改名しています。

スポンサーリンク

→真田信繁が豊臣秀吉の人質となった経緯と秀吉のもとでの生活は?

鬼の小十郎と称された片倉小十郎重長

信繁が亡くなる直前にわが子を託した片倉小十郎重長。慶長19年(1614年)からの大阪の陣では、病にあった父に代わって伊達政宗に従って参陣。敵将の後藤基次を討ち取るなどの功績をあげています。父からは、一軍を預かる将として刃を交えるなど、あるまじき軽挙だと叱咤されますが、世間に重長の武勇は知れ渡り、「鬼の小十郎」と称されました。

戦いにあっては武勇の誉れ高い重長。衆目美麗な武将でもあり、男色家として知られる小早川秀秋が重長を追い回したとの逸話が残されています。また、主の伊達政宗とは衆道関係にあったとする説もあります。

元和元年(1615年)に父の景綱が亡くなると、家督を継いでいます。重長の正室は、夫が保護した阿梅を妹のように可愛がり、自分の亡き後は阿梅を継室にと言い残したとされています。正室が亡くなった後、阿梅は、重長の継室に迎えられ、泰陽院と名乗っています。

→真田信繁は十文字槍の使い手⁉︎本当に強いのか?

 - 歴史


スポンサーリンク



《注目記事》U-NEXTで真田丸全話見逃し配信!無料で動画を視聴するのはコチラ!

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事