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真田信繁が豊臣秀吉の人質となった経緯と秀吉のもとでの生活は?


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関ヶ原の戦いで豊臣方に味方した信繁。その選択には、それ以前の信繁の人生が大きく影響していたものと考えられています。その人生とは、豊臣秀吉の人質となっていたという経験です。

どのようないきさつで、信繁は、秀吉の人質となったのでしょうか?秀吉のもとでどのような生活を送ったのでしょうか?

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徳川家康と戦うための後ろ盾を求めた父の昌幸

沼田領を死守するため、徳川家康の命に背いた昌幸。真田が徳川と戦うには、強力な後ろ盾が必要になりました。後ろ盾として、最も適切だったのが、上杉家でした。義に厚いことで知られる上杉家。当時の上杉家には、背後に豊臣秀吉がついていました。

昌幸は、以前、上杉家を裏切ったことがあり、景勝が要求をいれてくれるか不安がありました。そこで、昌幸は、次男の信繁に叔父の矢沢頼綱の嫡男・頼幸を付け、軍兵を揃え、上杉家に人質に出しました。天正13年(1585年)、信繁19歳のことです。

景勝は、昌幸に起請文を与え、信繁にも家臣として所領を与えました。家老の直江兼続は、信繁に軍法を教えたとされています。信繁にとっても、義を重んじる上杉家の方針に感じるところがあったと言います。

上杉家の支援もあり、真田軍は、一度は徳川家康の軍勢を敗走させます。第一次上田合戦です。しかし、徳川軍は、再び本腰を入れて真田攻めの準備を始めます。頼みの綱の上杉家は、家臣の新発田(しばた)重家らに背かれ、真田に援軍を送る余裕がありませんでした。

思案した昌幸は、信繁を秀吉のもとに人質として送ることにします。信繁は、5ヶ月ほどの越後滞在の後、今度は大坂の豊臣秀吉のもとに人質として出仕します。天正13年(1585年)11~12月のことです。

なお、秀吉のもとへの出仕については、景勝が上洛して留守の間に昌幸が信繁を呼び戻し、秀吉に出仕させ、それを知った景勝が怒って、秀吉に返してくれるように頼んだものの、相手が天下人の秀吉だったため、諦めたというエピソードもあります。

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→真田信繁と伊達政宗!2人はどのような関わりを持っていたのか?

人生の基盤を作った秀吉のもとでの生活

秀吉は、信繁を大層気に入り、人質でありながら、近習に取り立てました。天正18年(1590年)からは、秀吉は小田原攻めを行ない、信繁は、父の昌幸とともに参戦しています。この戦いが、信繁の初陣と考えられています。信繁、24歳。当時としては、些か遅い初陣でしたが、信繁は敵勢に突っ込み、撹乱させるなど、活躍したとされています。

小田原攻めの功によって、真田家は、豊臣秀吉より正式に沼田領を安堵されます。以後、昌幸と信繁は上田の統治、嫡男の信幸は沼田の統治に当たります。

信繁が、最初の妻として、真田家の家臣の堀田作兵衛の妹を娶ったのも、この頃です。堀田作兵衛の妹に、信繁は、長女の阿菊を産ませています。また、信繁は、大谷吉継の娘を正室に迎えています。この頃、信繁は、豊臣姓を賜り、従五位下に任ぜられています。信繁、28歳のこととされています。

→真田信繁の父・昌幸とはどのような人物だったのか?最後は?

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