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真田信繁伝説!名を広く世に知らしめた大坂夏の陣


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真田幸村として軍記物語や講談で活躍ぶりを語られる信繁。関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦では、真田十勇士を率いて大活躍したとされています。空想も交えて語られる真田十勇士。豊臣政権期の信繁の動向は、史料が少なく、詳細は分かっていません。歴史上、信繁の名前を広く世に知らしめたのは、もっと後のことでした。

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九度山での蟄居中に出家する

関ヶ原の戦いで、父の昌幸とともに豊臣方に味方した信繁。関ヶ原の戦いの後、父とともに九度山で蟄居生活を送ります。

ひもじい生活。無為徒食の生活を支えるのは、上田からの送金でした。もちろん、送られてくるお金だけでは足りず、皆で真田紐を織って、家臣が売りに出ていました。それでも足りず、窮乏生活の中で、父の昌幸は失意のうちに没します。慶長16年(1611年)のことでした。翌年、信繁は出家し、「好白」と名乗ります。

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係は悪化。大名の加勢が期待できない豊臣家は、浪人を集める策を取ります。信繁の元にも使者を遣わし、黄金200枚、銀30貫を贈りました。

信繁は、九度山を脱出し、子の幸昌とともに大阪城に入りました。信繁が大阪城に入ったことを知らされた家康は、体が震え、「親か子か?」と質して息子だと知らされると安堵したという逸話があります。

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→真田信繁の父・昌幸とはどのような人物だったのか?最後は?

家康の馬印を倒す

九度山を脱出して大阪城に入ったのが、昌幸ではなく、息子の信繁だと知って安堵した徳川家康。しかし、その安心は覆されることになります。

真田家は、兄の信之が守ってくれる。九度山に朽ちる前に、父の昌幸から受け継いだ「兵は詭道なり」ということを難攻不落の大阪城で試したい。もう一度武士に返り咲きたい。そのように考えての大阪城入城だったとされています。

大阪城に集まった浪人の中で三人衆と言われたのが、長宗我部盛親と毛利吉政と信繁です。評議に出てみて信繁が驚いたのは、豊臣家の重臣たちは、ろくに戦場に出たこともなく、持ち場の決定もできないことでした。

信繁は、独自の戦いをするしかないと割り切って、真田丸を構築。前田勢を打ちのめし、家康は二度と真田丸に仕掛けさせませんでした。昌幸の息子としてではなく、真田信繁として勇名を馳せたのは、この時が最初です。大坂冬の陣。信繁、48歳のことです。

この後、家康は、信繁を誘いますが、信繁は断り、命ある限り華々しく戦う決意を新たに、大坂夏の陣に突き進みます。夏の陣の前に義兄に宛てた書状の中で、信繁は、「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」と認めています。

夏の陣では、3500の兵をもって越前松平勢を突破。徳川家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康の旗本勢を散々に蹴散らします。ちなみに、本陣に攻め込まれ、馬印が倒されたのは、三方ヶ原の戦い以来。真田軍の猛攻に、家康は自害を覚悟したほどだと言われています。

ただし、真田軍も最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められます。四天王寺近くの安居神社の境内で、信繁は、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けました。享年49歳。

→真田信繁と伊達政宗!2人はどのような関わりを持っていたのか?

 - 登場人物


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