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真田信繁は兄の信幸や姉の村松殿との仲はどうだったのか?


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真田兄弟は、関ヶ原の戦いで敵味方に分かれます。また、大阪の陣でも敵として闘うことになります。それは、戦国という世のならいだったのか、兄弟仲を反映したものだったのか?真田信繁が、兄や姉とどのような仲だったのかを考えてみました。

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真田家で共に過ごしたのは2年足らず

『真田丸』の第1回「船出」では、主家の武田の存亡に怯えながらも、家族が睦まじく過ごす様が描かれています。新妻の喜びを素直に両親や弟たちの前で見せる長女の松、山崩しをして興じる弟の信繁の相手をしてやる信幸。日常的な幸せが感じられるシーンの数々が、散りばめられていました。あたかも、そうした情景が以前からずっとあったかのように。

しかし、第1回で取り上げたのが天正10年(1582年)だったことに、大きな意味があります。信幸と信繁が共に真田家で過ごせるようになったのが、この年からだからです。

兄の信幸は、幼少期を武田家の人質として過ごしていました。信幸は、武田勝頼の嫡男である信勝と同時に元服しています。「信」の字は、信勝から貰ったものとされています。天正10年(1582年)に武田家が滅ぼされると、信幸は母と共に真田家に戻ります。

信繁は、天正12年(1584年)には上杉家に人質として送られています。その2年後には、秀吉の人質として大坂に移されています。

そのため、信幸と信繁の兄弟が、共に真田家で過ごしたのは、天正10年(1582年)から天正12年(1584年)までの2年足らずということになります。

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→真田信繁と幸村の違いは×××だった!なぜ幸村なのか?

九度山蟄居中に兄とも会っていた⁈

慶長5年(1600年)、石田三成の密書を受け取った昌幸は、下野国犬伏において2人の息子たちと去就を話し合いました。その結果、信幸は、父の昌幸、弟の信繁とは別れて、1人家康につくことにします。世に言う「犬伏の別れ」です。

兄弟が東軍と西軍に分かれた一因に、妻の実家があげられています。信幸の正妻、小松殿は、家康の家臣である本多忠勝の長女。信繁は、秀吉の口利きで、三成の盟友、大谷吉継の娘を娶っています。また、敵味方に分かれることで、いずれが勝っても真田の家は残ると昌幸が考えたとするのが、通説です。

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、上田合戦で多くの犠牲を出したことから、「昌幸と信繁の首を取ってくれば、100万石を与える」との朱印状を信幸に送っています。しかし、信幸は朱印状と引き換えに自分の首を差し出そうとし、父と弟の助命を嘆願します。この話は美談として瞬く間に諸大名の間に広まり、昌幸と信繁は九度山蟄居という処分にとどまります。

一説では、九度山に蟄居した弟の信繁と、信幸は愛妾の小野お通の家で密かに会っていたとも言われています。また、信幸も信繁も、姉の松村殿にこまめに近況を知らせていたことが知られています。

→真田信繁の子孫の現在は?著名人にも末裔がいるって本当?

 - 登場人物


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