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真田信繁は武田信玄の家臣?人質?真実はどうだったのか?


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      2016/02/10

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人気ゲームでは、武田信玄の家臣と扱われることもある真田幸村。そのため、よくよく考えると、年齢的に変⁈という事実に突き当たります。

実際に武田信玄と関わりがありそうなのは、幸村の父、昌幸だったらしいということは、大河ドラマを第4回まで見てくると、日本史初めてさんにも納得されるはず。また、第4回「挑戦」では、信長への人質として誰を送るかで家族で話し合う場面もあり、いわゆる「人質」観が少々変わった人もいることでしょう。

真田家の誰が誰の人質になっており、どのような生活を送ったのかをまとめてみました。

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武田信玄の人質になった昌幸は武藤氏の養子になる

第4回「挑戦」で、信長に目通りした昌幸は、信長の印象を「若き日のお館様のようだ」と語りました。昌幸にとって「お館様」というのは、武田信玄のこと。

昌幸が信玄の元に人質として出仕したのは、昌幸が7歳の時のことです。信玄に深い信頼を寄せた、父の幸隆の決断でした。信玄の元で、昌幸は、幼児教育「耳聞」を受けます。そこで、洞察力の高さを示して認められ、信玄の側近の奥近習衆に取り立てられます。奥近習衆として信玄の目や耳となって活躍し、「我が両目のごとし」と評価されます。

昌幸は、信玄に寵愛され、信玄の母方の一族「武藤氏」の養子になり、武藤家の家督を継ぎます。第4回「挑戦」で、徳川家康が昌幸のことを「さすがは勇名を馳せられた武藤喜兵衛殿」と呼んだのは、この名前を名乗っていた時のことを言ったわけです。
真田兄弟、信幸と信繁が生まれたのも、昌幸が武藤喜兵衛を名乗っていた頃のことです。信繁が生まれたのは、1567年。信玄が、出陣先の伊那駒場で病没したのが、1573年。翌1574年には、幸隆が死去。1575年の長篠の戦いで、真田家当主の信綱と次弟の昌輝が討死し、真田の家を三男の昌幸が継ぐことになります。

その命を下したのが、当時、武田家の当主だった勝頼でした。すでに武藤氏の養子として武藤家の家督を継いでいた昌幸が、真田家に復帰することになり、昌幸は、我が子を勝頼の人質としたのでした。

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岩殿城へと向かう前に武田の人質を免じられた信繁ら

勝頼が当主となってから、武田では重臣の離反が相次ぎ、穴山梅雪が信長に寝返ったことで、徳川方も武田領に侵入してきました。そこで、昌幸は、勝頼に強固な砦、岩櫃城に退いて信長の侵攻を食い止めるように進言します。一旦は、昌幸の言葉をいれた勝頼。しかし、昌幸が岩櫃城へと先に向かった後、小山田信茂が岩櫃城ではなく、岩殿城に入るように勧め、勝頼は、家臣一同の考えだとの言葉に、岩殿城行きを決めます。

勝頼は、岩殿城に向かうにあたり、真田の者たちについては、人質を免じています。ドラマでは、勝頼自ら、兄弟の元に出向き、親しく言葉を交わしたことになっています。勝頼の人情味あふれる態度に深い感銘を受けた人も少なくないことでしょう。史実では、勝頼は、直情型で一本気な性格だったとされています。

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